「そういえば、あれだけ騒いだ国際会計基準って今どうなってんだ」——先日、雑談の中でこの一言が出て、正直に言うと私も即答できませんでした。2010 年前後、書店のビジネス書コーナーは IFRS 一色で、強制適用の是非が経済紙の一面を飾っていた時期があります。あの頃に「これからは IFRS だ」と語っていた人たちは、今どこで何を話しているのか。任意適用に切り替わってから 10 年以上が経ち、現場の手触りは当時の予想とずいぶん違う形に落ち着いているように見えます。この記事は結論を一発で出すものではなくて、私自身が「あの騒ぎは何だったのか」を整理し直すための定点観測ノートです。
あの頃の温度感を思い出してみる
2009 年に金融庁の企業会計審議会から中間報告が出て、「2015 年または 2016 年から強制適用」というスケジュール感が本気で議論の俎上に乗っていた時期がありました。当時コンサル業界の端っこにいた私の感覚で言うと、温度感はかなり高かったです。
大手監査法人は IFRS 部門を新設して中途採用を回し、上場企業の経理部では「移行プロジェクト」の RFP が出始め、書店には IFRS 特設コーナーができていました。『IFRS で経営はこう変わる』みたいなタイトルの本が、毎月のように積まれていたのを覚えています。
上場企業の現場では、勘定科目体系の見直し、固定資産の減価償却方法の再検討、収益認識の整理、連結子会社のグループ会計方針の統一——挙げ始めるとキリがないほどの論点が、一斉に動き出していました。
「2015 年から強制適用」という前提で、3 桁億円規模の移行予算を組み始めた会社が現実にあった。
白状すると、私自身も「これは流れが決まったな」と思っていた側です。ところが 2011 年の自見大臣発言あたりから雲行きが変わり、強制適用の判断は事実上の先送りになりました。気づけば「IFRS 強制適用」というキーワード自体が、経済紙の一面から静かに退場していきます。
任意適用、実数で今どうなっているか
ここから定点観測の起点です。強制適用は見送られた、では任意適用はどうなったのか。
金融庁および東京証券取引所が公表している数字を追っていくと、興味深い動きが見えてきます。2013 年時点で任意適用または適用予定を表明していた会社は 20 社程度でした。それが 2018 年頃には 200 社近くまで増え、最近の公表値では上場企業のうち 280 社前後が IFRS を任意適用している状況になっています(最新公表値は金融庁・東証の資料で確認できます)。
注目すべきは社数より時価総額ベースでのカバレッジです。任意適用企業の時価総額合計は、東証上場企業全体の 4 割前後を占めると公表されています。社数だと 1 割未満ですが、時価総額で見ると景色がまったく違う。要するに「大型グローバル企業が静かに乗り換え、中堅以下はそのまま日本基準で粛々と運用している」という二極化です。
観点 | 強制適用時に予想されていた姿 | 現時点の実態 |
|---|---|---|
適用社数 | 上場企業のほぼ全社 | 280 社前後(1 割未満) |
時価総額カバレッジ | 100% | 4 割前後 |
基準の本数 | IFRS に統一 | 日本基準・米国基準・IFRS の 3 本立て |
強制適用の議論 | 継続 | 事実上の凍結 |
「全上場企業が IFRS に揃う」シナリオには程遠いものの、「任意適用なんて誰もやらない」という当時の悲観論も外れています。3 本立てが定着した、というのが現時点での率直な観測です。
現場で起きた静かな変化
派手な「移行プロジェクト」は減ったのですが、現場では別の形で IFRS の影響が継続しています。これが定点観測していて一番面白いところです。
例えば収益認識基準。2021 年から日本基準にも適用が始まった新しい収益認識基準は、IFRS 第 15 号の考え方をかなり取り込んだものでした。M&A 後の PPA(取得原価配分) 実務も、のれんの償却を除けば IFRS の考え方とほぼ揃っています。海外子会社を多く抱える企業のグループ会計方針は、現場の効率を考えるとどうしても IFRS 寄りに整備せざるを得ない。
つまり「強制適用しなかったから日本企業は IFRS と無縁」というわけではなく、議論の成果は別ルートで実装されてしまったわけです。
これは結構大きな話だと思っています。
「IFRS を採用する/しない」という二元論で見ていた当時の議論は、振り返ると論点の立て方が少しズレていたのかもしれません。実際に起きたのは「採用するかしないか」ではなく、「日本基準の中身がじわじわ IFRS 化していく」という静かな変化でした。
なぜ騒ぎは収束したのか、自分なりの仮説
なぜあれだけの熱量が、強制適用ではなく「じわじわ浸透」という形に着地したのか。これは断定する話ではなくて、定点観測ノートの私見として 3 つの仮説を並べておきます。
- 米国 SEC が IFRS への完全移行を選ばなかったこと。日本の議論は「米国が動くなら日本も」という前提に強く依存していました。米国が動かないと決めた時点で、日本が先に走るインセンティブは大きく下がります。
- リーマン後の地政学変化で「会計のグローバル統一」自体の優先度が下がったこと。各国が自国基準を再評価する流れになり、「世界統一基準」の機運自体が一段落しました。
- 日本企業の海外売上比率の伸び方が、想定と違ったこと。グローバル展開する大型企業は IFRS に動いたが、中堅企業のグローバル化は当時の予想ほど一直線には進まず、コストをかけて移行する必然性が現場で生まれにくかった。
逆に「では今後また騒ぐタイミングはあるか」と問われれば、私は**サステナビリティ開示基準(ISSB / SSBJ)**の動向を挙げます。会計基準そのものではないですが、国際統一基準を巡る同じ構造の議論が、今度はサステナビリティの文脈で動き始めています。同じパターンで「強制適用は見送り、実務には浸透」となるのか、今度は違う着地になるのか。ここは継続して観測していきたい論点です。
ある中堅製造業の経理部長に聞いた、IFRS 検討の 10 年
知人の経理部長(製造業・連結売上 1,000 億円規模・海外売上比率 4 割)に、IFRS 任意適用を検討した経緯を匿名で聞かせてもらいました。冒頭の問いに対する、現場側からのひとつの回答として書いておきます。
最初の本気の検討は 2013 年頃でした。海外子会社の決算統一とグループ全体の経営管理の高度化を目的に、IFRS 任意適用を真剣に検討。ところが移行コストの試算で数億円規模が出て、効果との見合いで一旦見送り。「あの時は本当に直前まで行ったんですよ」とその方は振り返っていました。
転機は 2020 年代に入ってからの再検討です。今度のきっかけは IFRS そのものではなく、海外子会社の決算早期化と監査効率化の文脈。プロジェクトは進んだものの、最終的に「IFRS 任意適用」ではなく「グループ共通の会計方針整備」というプロジェクトに姿を変えていきました。
結果として IFRS 任意適用には踏み切らず、しかし内部の会計実務は IFRS の考え方をかなり取り込む形に着地。「あの頃の議論は、移行という形ではなく、実務の中に染み込む形で答えが出た」——これがその方の総括でした。
1 社の例にすぎませんが、上で書いた「議論の成果は別ルートで実装された」という見立てを、現場の手触りで裏打ちしてくれる証言だと感じています。
会計制度のその後を、経営判断と一緒に整理したい方へ
会計基準や開示制度の話は、それ単体だと「経理部の話」で終わりがちですが、本当に効いてくるのは経営判断の前提条件としての側面です。IFRS の議論も、そもそもは「日本企業のグローバル経営をどう支えるか」という問いから始まっていたはずでした。それが制度論に閉じて熱量を失った——という見方もできます。
同じ構造はサステナビリティ開示でも、生成 AI 時代の経営管理でも、繰り返し起きそうな気がしています。「あれだけ騒いだ◯◯、結局どこに着地したのか」——このシリーズは今後も定点観測として続けていく予定です。
もし「自社の文脈で、会計制度や開示の動きを経営判断とどうつなげるか」を一緒に整理したいテーマがあれば、論点を持ち寄って議論する形でお声がけください。サービス押し売りの場ではなく、気になっているテーマを一緒に整理する場として使ってもらえれば。
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